日本史の流れの概要(太平洋戦争)

日本史の流れの概要(太平洋戦争)です。

    目次

真珠湾攻撃

背景

1937年:日中戦争を開始し、中国へ進出。

1940年:日独伊三国同盟を締結。

1941年:日本が仏領インドシナへ進出したことで、アメリカ・イギリスは日本への経済制裁を強化。
アメリカは日本への石油輸出を全面停止し、日本の経済・軍事に大きな打撃を与える。
日本はアメリカと交渉を試みるが、和平交渉は決裂。

日本の決断

石油供給が途絶えると、日本は長期的な戦争継続が困難になると考え
アメリカとの戦争を回避できないと判断し、先制攻撃を決定。

攻撃

1941年11月26日、日本の攻撃部隊は択捉島からハワイに向かい始めました。

1941年12月2日、日本海軍連合艦隊司令部は進撃中の部隊に対し「ニイタカヤマノボレ1208」(攻撃をせよという命令)を打電

1941年12月8日、部隊は12月8日に真珠湾を攻撃しアメリカの太平洋艦隊の戦艦4隻が沈没しました。
ただし、航空母艦は不在だっため無傷。

指揮官 南雲忠一中将
空母 赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴
戦艦 比叡、霧島
重巡洋艦 利根、筑摩
軽巡洋艦 阿武隈

攻撃開始後「トラ・トラ・トラ」(我、奇襲に成功せり)と打電しています。
攻撃の発案者は連合艦隊司令長官の山本五十六大将です。

影響

翌日の12月8日にアメリカは日本に宣戦布告し太平洋戦争が正式に開戦しました。

「リメンバー・パールハーバー(Remember Pearl Harbor)」のスローガンのもと、アメリカの戦意が高まりました。

日本は一時的にアメリカ太平洋艦隊の戦力を削ることに成功しましたが、航空母艦が無傷だったことや、アメリカの工業力により戦力がすぐに回復しています。

 

マレー作戦、シンガポールの戦い

日本軍がイギリス領マレー半島およびシンガポールを攻略した戦いです。

この作戦の成功により、日本は東南アジアの戦略的重要拠点を獲得し、太平洋戦争の初期において大きな戦果を上げました。

経緯

1941年12月8日、真珠湾攻撃後に作戦が開始されました。

1941年12月10日、イギリスの東洋艦隊とマレー沖開戦を行い日本は勝利しました。
→イギリス軍はマレー半島から撤退し、シンガポールへ後退。

1942年2月8日、日本軍はイギリス軍の主力を撃破し、シンガポール市街へ進撃。

1942年2月15日、シンガポールのイギリス軍は降伏しました。
イギリス軍の投降兵:約13万人(第二次大戦中、イギリス軍最大の降伏)。

指揮官 山下奉文中将 (マレーの虎と呼ばれました)

シンガポールは日本の支配下に入り、昭南島と改名されました。

 

フィリピンの戦い

日本はアメリカの植民地だったフィリピンも攻撃対象にしました。

1941年12月、ルソン島に上陸し、マニラを占領しました。

1942年6月に連合国軍の部隊は降伏して戦闘は終了しました。

フィリピン全体が日本軍の支配下になりました。

マッカーサー将軍はオーストラリアへ撤退し、「I shall return(私は必ず戻ってくる)」と有名な言葉を残します。

 

ビルマの戦い

日本軍と連合軍(イギリス、アメリカ、中国など)がビルマ(現在のミャンマー)で戦いました。

背景

ビルマはイギリスの植民地(英領インドの一部)でした。

中国国民政府への補給路(援蒋ルート)があり、日本軍にとってはそれを断つことが重要。

インド侵攻や東南アジア支配の足がかりとして、日本にとって戦略的な意味がありました。

経緯

1942年1月、日本軍はタイを通ってビルマに侵攻しました。

ビルマ(現ミャンマー)とインドは当時イギリスの植民地だったため、イギリスからの独立を目指すビルマやインドの軍は日本とともに戦いました。

イギリス軍、中国軍は連携不足で撤退を余儀なくされ、ラングーン(現ヤンゴン)を含めビルマ全土が日本軍の支配下になり、中国の援助ルート(ビルマ・ルート)は遮断されました。

 

蘭印作戦

日本軍がオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するために行った作戦で石油資源の獲得を目的としました。

背景

豊富な天然資源(特に石油)を持っていたため、日本にとって非常に魅力的な地域でした。

当時、日本はアメリカ・イギリスからの石油輸出を止められており、資源の自給が急務で蘭印(オランダ領東インド)を制圧すれば、戦争継続に必要な資源を確保できると考えました。

経緯

1942年1月に攻撃を開始後、わずか3ヶ月で蘭印を完全に占領し。豊富な石油、ゴム、スズなどの資源を手中にしました。その結果一時的に資源不足を解消し、戦争継続が可能になりました。

 

ミッドウェー海戦

太平洋のミッドウェー環礁付近で行われた、日本海軍とアメリカ海軍の決戦です。

この戦いで、日本は航空母艦4隻を失う大敗北を喫し、戦争の流れがアメリカ側に大きく傾く転換点となりました。

背景

日本は、アメリカ空母戦力を壊滅させ、ハワイへの脅威を強めるため、ミッドウェー攻略作戦を計画。

アメリカは日本の暗号通信を解読し、日本軍の攻撃計画を事前に把握していました。

経緯

1942年6月4日、日本軍は早朝にミッドウェー島を空襲。

一方アメリカ軍も日本空母を急襲。赤城、加賀、蒼龍の3隻が爆撃を受け、炎上・戦闘不能に。
飛龍だけが生き残り、反撃を行う。

飛龍の艦載機が反撃し、アメリカの空母ヨークタウンを大破させる。

1942年6月5-6日、アメリカ軍が再度攻撃を実施し、日本の飛龍も撃沈。これにより、日本の主力空母4隻はすべて撃沈。

指揮官 山本五十六、南雲忠一、近藤信竹、山口多聞
空母 沈没(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)
重巡洋艦 沈没(三隈)

これ以降、日本は防衛戦を余儀なくされ、戦争の流れがアメリカ有利に変わりました。

 

ガダルカナル島の戦い

日本軍とアメリカ軍が激しくぶつかった初の本格的な地上戦でした。

背景

日本はこの島に飛行場(後のヘンダーソン飛行場)を建設していました。ここから爆撃機を飛ばせば、オーストラリアや南太平洋の連絡路を脅かせます。
アメリカはこれを阻止するため、本格的な反攻上陸作戦を実施しました。

1942年8月からガダルカナル島を巡り日本と連合国軍が戦いました。

日本軍は補給が間に合わず、兵士は飢えとマラリアに苦しみました。

また日本軍は正面突撃など無謀な攻撃を繰り返し、壊滅的被害をだし撤退しました。

 

ニューギニアの戦い

日本軍と連合軍(主にオーストラリア軍・アメリカ軍)がニューギニア島(現在のパプアニューギニアとインドネシア領)で激しく争った長期戦です。

背景

ニューギニア島は、オーストラリアのすぐ北に位置しています。
東西に広く、山岳地帯と密林が広がる地形です。

日本はオーストラリアへの進出・遮断を狙ってニューギニアに拠点を築こうとしました。
アメリカ・オーストラリアは逆に、日本の南進を阻止し、反攻の拠点にしようとしました。

経緯

1942年3月から終戦の1945年8月15日まで戦いは続きました。

感染症(マラリア・赤痢など)や過酷な地形が両軍を苦しめました。

日本軍は補給路を断たれ、山中で孤立、戦わずして死ぬ兵も多数出しました。

 

インパール作戦

日本陸軍が英領インド北東部のインパールを攻略しようとしたこの作戦は、最終的に壊滅的な失敗に終わり、多くの兵士が命を落としました。

1944年3月、補給のない状況が続き多数の餓死者を出しました。
史上最悪の作戦と呼ばれています。

補給計画がほぼ皆無だった
→ ジャングルを抜けて戦うには膨大な物資が必要なのに、補給方法を無視。

兵士の消耗を軽視
→ 「精神力で勝てる」という無根拠な精神論が支配。

撤退の判断が遅れた
→ 現地司令官からの中止要請を無視し、作戦を続行。

指揮官 河辺正三大将、牟田口(むたぐち)廉也中将

 

マリアナ沖海戦

アメリカ海軍と日本海軍が、マリアナ諸島周辺の制海権・制空権を巡って激突しました。

1944年6月の日本軍と米軍の戦いです。
日本軍は、空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を失い完敗しました。

 

サイパンの戦い

1944年6月、米軍がサイパンに上陸しました。
戦いは苛烈を極め日本軍は壊滅しました。

B-29爆撃機による日本本土空襲が可能になりました。

この敗戦により東条英機内閣は総辞職しました。

 

レイテ沖海戦

アメリカは反攻作戦を展開し、マッカーサーはフィリピン奪還を目指しました。

1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に上陸。

この時、日本海軍はレイテ沖海戦で大敗を喫し、壊滅的な打撃を受けました。

史上最大の海戦とも呼ばれます。戦艦武蔵はこの戦いで沈没しました。

1945年1月、アメリカ軍がフィリピン最大の島、ルソン島へ上陸。

首都マニラは激戦の末、3月に奪還されました。

 

硫黄島の戦い

1945年2月、アメリカ軍が硫黄島に上陸し3月に米軍が占領しました。
日本軍、米軍ともに多数の戦死者がでました。

指揮官 栗林忠道中将

 

沖縄の戦い

1945年4月、米軍が沖縄に上陸し6月23日に終了しました。
多数の兵士と民間人が犠牲になりました。
戦艦大和は、1945年4月に沖縄へ向かう途中、米軍の攻撃で鹿児島県の沖で沈没しました。

平和の礎(いしじ):沖縄戦で亡くなったすべての人々の名前が刻まれた記念碑(糸満市・摩文仁)

ひめゆりの塔:従軍看護に動員された女学生たちの悲劇を伝える慰霊碑

首里城跡地下壕:日本軍司令部があった場所(現在も遺構あり)

 

第二次世界大戦終結から29年後にフィリピンのルバング島から日本へ帰還した日本兵

1944年12月、小野田 寛郎(ひろお)はフィリピンのルバング島に着任。
1945年8月、第二次世界大戦終結。
1974年3月、元上官の谷口による任務解除命令を受けて投降。
1974年3月、日本帰国。

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