概要 | 紀元前260年ごろ 戦国の七雄 |
紀元前221年 始皇帝 天下統一 | |
紀元前209年 陳勝・呉広の乱 | |
紀元前209年 項羽と劉邦 | |
紀元前206年 秦の滅亡 | |
紀元前206年 鴻門之会~楚漢戦争始まる | |
紀元前205年 彭城(ほうじょう)の戦い | |
紀元前202年 劉邦が皇帝(高祖)になる | |
韓信関連のことば |
紀元前260年ごろ 戦国の七雄
秦,楚,斉,燕,趙,魏,韓は、戦国の七雄と呼ばれます。
しかし紀元前246年、秦で始皇帝が即位(13歳)してから
秦が次々と他国を滅ぼし紀元前221年に秦が天下統一しました。
紀元前230年、韓を滅ぼす。
紀元前228年、趙を滅ぼす。
紀元前225年、魏を滅ぼす。
紀元前223年、楚を滅ぼす。
紀元前222年、燕を滅ぼす。
紀元前221年、斉を滅ぼす。
紀元前221年 始皇帝 天下統一
紀元前221年に秦は天下統一しました。首都は咸陽(かんよう)です。
紀元前214年に始皇帝は万里の長城の基礎を作りました。
紀元前209年 陳勝・呉広の乱
紀元前210年に始皇帝は崩御し、始皇帝の子の胡亥(こがい)が2代皇帝になりました。
紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こりました。
陳勝と呉広は、秦の国境の守備のため目的地に向かっていましたが、大雨により目的地へ期日までにたどり着く事が不可能となってしまいました。
たどり着けなければ秦の法律では斬首のため反乱を起こしました。
陳勝は王となり、国号を張楚と定めました。
紀元前209年 項羽と劉邦
陳勝・呉広の乱に呼応し、呉中の項羽と沛の劉邦も挙兵しました。
項梁(項羽のおじ)が郡守の印を奪い、会稽郡守とりました。
劉邦が沛県の県令となりました。
陳勝・呉広の乱は、紀元前208年に秦の将軍の章邯(しょうかん)により鎮圧されました。
紀元前206年 秦の滅亡
紀元前207年、鉅鹿(きょろく)の戦い
楚軍の項羽と秦軍の章邯が戦い、楚軍が勝利しました。
秦の趙高は、2代皇帝の胡亥を殺害し、子嬰(しえい)を3代皇帝にしました。
秦の滅亡
項羽と劉邦は、秦の首都の咸陽に向かって進軍していましたが、紀元前206年に劉邦が先に咸陽に入りました。
秦の3代皇帝の子嬰は劉邦に降伏し秦は滅びました。
劉邦は、秦の複雑な法律を廃止し、殺人、傷害、窃盗のみを処罰とする法三章を出しました。
劉邦は項羽がまだ咸陽に到着していないにも関わらず函谷関に兵を置きました。
項羽は函谷関の兵を撃破し劉邦より遅れて1ヶ月後に咸陽に入りました。
紀元前206年 鴻門之会~楚漢戦争始まる
紀元前206年に項羽と劉邦が会見を行いました。項羽側の范増はこの機に劉邦を討とうしたが討てませんでした。
項羽側
項羽
范増・・・劉邦を討とうとする
項荘 項羽のいとこ・・・剣舞で劉邦の命を狙う。
項伯 項羽のおじ
劉邦側
劉邦
張良・・・軍師
樊噲・・・将軍
劉邦には辺境の地である漢中が与えられ、漢王と呼ばれるようになりました。
左遷は、ここからきています。辺境の地に追いやられること。
楚漢戦争
紀元前206年から紀元前202年の楚の項羽と漢の劉邦との間の戦争のこと。
紀元前205年 彭城(ほうじょう)の戦い
項羽が斉の反乱の制圧に出陣しました。
その隙をついて劉邦と韓、魏等の連合軍の約56万は、項羽の本拠地の彭城を制圧しました。
しかし項羽は3万の軍勢で彭城へ戻り、約56万の劉邦らの連合軍を破りました。
紀元前202年 劉邦が皇帝(高祖)になる
項羽を破る直前の状況
劉邦の家臣の韓信は、功績によって劉邦より斉王に任じられていました。
彭越は、項羽の補給路を断ちゲリラ戦を展開し貢献しました。
英布(黥布)は、当初は項羽の配下でしたが、後に劉邦の配下として参戦しました。
紀元前202年 垓下(がいか)の戦い
垓下(がいか)の戦いで劉邦が項羽を破りました。
漢軍は楚軍を包囲し故郷の楚の歌を歌いました。(四面楚歌)
その後、劉邦が皇帝(高祖)になりました(紀元前202年)。
漢の三傑
張良(ちょうりょう)、韓信(かんしん)、蕭何(しょうか)を指します。
韓信は元は項羽軍にいましたが、劉邦配下の蕭何の推挙により漢軍の大将軍となりました。
韓信関連のことば
国士無双
韓信は、国士無双(こくしむそう)と呼ばれます。他に比類ない人物という意味です。
韓信の股くぐり
韓信は大志をもっていたので、若い頃に町で言いがかりをつけられも争わずその股をくぐりました。
背水の陣
韓信が趙の国と戦った時、川を背にして逃げ道がない陣にし勝利しました。
後には引けないたとえになっています。
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