項羽と劉邦 流れの概要と場所

目次

紀元前260年ごろ 戦国の七雄

周王朝が衰退し、諸侯国間で争う戦国時代でした。

秦,楚,斉,燕,趙,魏,韓は、戦国の七雄と呼ばれます。

紀元前246年に秦では、始皇帝が13歳で即位しました。

その後、秦は強力な軍事力で次々と他国を滅ぼし紀元前221年に秦が天下統一しました。

紀元前230年、韓を滅ぼす。
紀元前228年、趙を滅ぼす。
紀元前225年、魏を滅ぼす。
紀元前223年、楚を滅ぼす。
紀元前222年、燕を滅ぼす。
紀元前221年、斉を滅ぼす。

 

紀元前221年 始皇帝による天下統一

紀元前221年に秦は天下統一しました。首都は咸陽(かんよう)です。

中国初の統一王朝で中央集権的な国家体制を確立しました。

始皇帝は法によって統治を行うことを重視し法律を統一しました。度量衡の統一も行いました。

また儒教思想を除くために焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行いました。
具体的には、儒教の書籍を焼き、儒教の学者を生き埋めにしました。

紀元前214年に始皇帝は万里の長城の基礎を作りました。

 

紀元前209年 陳勝・呉広の乱

紀元前210年に始皇帝は崩御し、始皇帝の子の胡亥(こがい)が2代皇帝になりました。

紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こりました。中国歴史上初の農民による反乱です。

陳勝と呉広は、秦の国境の守備のため目的地に向かっていましたが、大雨により目的地へ期日までにたどり着く事が不可能となってしまいました。

たどり着けなければ秦の法律では斬首のため反乱を起こしました。

秦に対する民衆の不満から多くの支持を得て勢力を拡大しました。

陳勝は王となり、国号を張楚と定めました。

以下は、陳勝のことばです。

「王侯将相いずくんぞ種あらんや(おうこうしょう しょういずくんぞ しゅあらんや)」

乱世では王侯将相になるのは家系ではなく実力と運でなれるという意味です。

 

紀元前209年 項羽と劉邦の挙兵

陳勝・呉広の乱に呼応し、呉中の項羽と沛の劉邦も挙兵しました。

項羽は、楚の大将軍項燕の甥です。武勇に優れていましたが短気でした。

劉邦は、沛の亭長(役場の長)でした。秦の役人に対して反乱を起しその後、沛県の県令となりました。武勇はありませんが人たらしで有能な家臣(子分)がたくさんいました。

 

陳勝・呉広の乱は、紀元前208年に秦の将軍の章邯(しょうかん)により鎮圧されました。

 

紀元前206年 秦の滅亡(鉅鹿の戦い)

紀元前207年、鉅鹿(きょろく)の戦い

楚軍の項羽と秦軍の章邯が戦いました。
楚軍は、秦軍を包囲して兵糧攻めを行い、秦軍の章邯は数十万の兵を連れて降伏しました。

秦の趙高は、2代皇帝の胡亥を殺害し、子嬰(しえい)を3代皇帝にしました。

秦の滅亡

項羽と劉邦は、秦の首都の咸陽に向かって進軍していましたが、紀元前206年に劉邦が先に咸陽に入りました。

秦の3代皇帝の子嬰は劉邦に降伏し秦は滅びました。

劉邦は、秦の複雑な法律を廃止し、殺人、傷害、窃盗のみを処罰とする法三章を出しました。

劉邦は項羽がまだ咸陽に到着していないにも関わらず函谷関に兵を置きました。

項羽は怒って函谷関の兵を撃破し劉邦より遅れて1ヶ月後に咸陽に入りました。

 

紀元前206年 鴻門之会~楚漢戦争始まる

紀元前206年に項羽と劉邦が会見を行いました。

項羽側の范増はこの機に劉邦を討とうとしていました。

しかし、劉邦側の張良や樊噲の活躍により阻止されました。

劉邦は、項羽に謝罪し項羽に従うことを誓いました。

 

項羽側
項羽
范増(軍師)・・・劉邦を討とうとする
項荘(項羽のいとこ)・・・剣舞で劉邦の命を狙う。
項伯(項羽のおじ)

劉邦側
劉邦
張良(軍師)・・・機転を利かして劉邦を救う
樊噲(将軍)・・・機転を利かして劉邦を救う

項羽は、劉邦に辺境の地である漢中を与えました。劉邦は漢王と呼ばれるようになりました。

左遷は、ここからきています。辺境の地に追いやられること。

楚漢戦争

紀元前206年から紀元前202年の楚の項羽と漢の劉邦との間の戦争は楚漢戦争と呼ばれます。

 

紀元前205年 彭城(ほうじょう)の戦い

項羽は、斉の田栄を討伐するために北上していました。

劉邦は、その不在の隙をついて韓と魏の連合軍との合計約56万の軍勢で、楚の本拠地の彭城を制圧しました。

しかし項羽は3万の軍勢で彭城へ戻り、約56万の劉邦らの連合軍を破りました。

漢は大敗を喫しました。

しかしその後、韓信の各国への侵攻や陳平の項羽軍に対する離間の計が成功し漢の勢力は回復していきました。

 

紀元前202年 劉邦が皇帝(高祖)になる

項羽を破る直前の状況

劉邦の家臣の韓信は、功績によって劉邦より斉王に任じられていました。

彭越は、項羽の補給路を断ちゲリラ戦を展開し貢献しました。

英布(黥布)は、当初は項羽の配下でしたが、後に劉邦の配下として参戦しました。

紀元前202年 垓下(がいか)の戦い

垓下(がいか)の戦いで劉邦が項羽を破りました。

漢軍は楚軍を包囲し楚の故郷の歌を歌いました。(四面楚歌)

その後、劉邦が皇帝(高祖)になりました(紀元前202年)。

漢の三傑

蕭何(しょうか)、張良(ちょうりょう)、韓信(かんしん)、を指し漢王朝の天下統一に大きく貢献しました。

蕭何は、劉邦と同じ沛出身の役人から丞相になりました。政治や財政を担当し漢朝の法制・制度の整備に貢献しました。

張良は、韓の貴族の出身です。項羽との戦いにおいて軍師として劉邦に的確な献策をしました。

韓信は元は項羽軍にいましたが、蕭何の推挙により漢軍の大将軍となりました。国士無双と呼ばれる戦の天才です。

 

韓信関連のことば

国士無双

韓信は、国士無双(こくしむそう)と呼ばれます。他に比類ない人物という意味です。

韓信の股くぐり

韓信は大志をもっていたので、若い頃に町で言いがかりをつけられも争わずその股をくぐりました。

背水の陣

韓信が趙の国と戦った時、川を背にして逃げ道がない陣にし勝利しました。

後には引けないたとえになっています。

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