日本の歴史の幕末の時代です。ペリー来航から大政奉還までです。
目次
ペリー来航
1853年 |
アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーの軍艦4隻が、(浦賀)(神奈川県横須賀市)に来航し、(久里浜)(神奈川県横須賀市)に上陸して幕府に開国を迫りました。軍艦は、(黒船)とも呼ばれます。
アメリカ大統領の(フィルモア)の国書を提出しています。
アメリカには、捕鯨船の日本への立ち寄りやアジアへの勢力を伸ばす目的がありました。 |
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嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航/Wikipediaより引用
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神奈川県横須賀市の浦賀と久里浜の場所
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老中の(阿部正弘)は回答1年待ってもらうよう求め、ペリーも帰国しました。 |
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マシュー・ペリー/Wikipediaより引用
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1853年 |
ペリー来航の後にロシアの(プチャーチン)が長崎に来航しました。 |
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安政の改革
1853年 |
ペリーの来航を受けて老中の(阿部正弘)が主導になって安政の改革を行いました。 |
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幕府の将軍は、第13代 徳川(家定)です。ドラマ篤姫(天璋院(てんしょういん))の夫です。 |
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改革の内容 |
15代将軍徳川慶喜の実父の(徳川斉昭)の謹慎を解除し海防参与に任命しました。 |
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海防掛として(勝海舟)らを採用しました。 |
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勝海舟/Wikipediaより引用
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浦賀沖や品川沖に(台場)という人工島を作って大砲を設置しました。品川沖の(台場)は、現在の東京のお台場です。 |
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品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(遊就館蔵)/Wikipediaより引用
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海軍の養成を目的として(長崎海軍伝習所)を作りました。オランダの軍人が教師です。生徒に勝海舟や榎本武揚らがいました。 |
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長崎海軍伝習所絵図/Wikipediaより引用
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(講武所)を作りました。幕臣が子弟たちに剣術や砲術などを教えるところです。東京の神田小川町あたりにありました。 |
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(蕃書調所(ばんしょしらべしょ))を作りました。西洋の学問を学ぶところです。後の東京大学の元の1つになりました。東京の九段坂あたりにありました。 |
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日米和親条約
1854年 |
ペリーが再び来航し、(日米和親)条約を結びました。 |
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条約の内容 |
静岡県の(下田)と北海道の(箱館(函館))を開港しました。
→鎖国が終わりました。 |
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下田の場所(静岡県下田市)
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下田にアメリカの総領事館が置かれ、総領事に(ハリス)が着任しました。
→(ハリス)は、幕府に対して通商条約を結ぶように要求しました。 |
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タウンゼント・ハリス/Wikipediaより引用
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幕府は(最恵国)待遇を認めました。第三の国に認めた最も良い待遇を相手の国にも認めることです。イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結びました。 |
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幕末の思想
(尊王)派 |
天皇中心に政治を行うべき |
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(佐幕)派 |
幕府中心に政治を行うべき
新選組の近藤勇、土方歳三 |
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(攘夷)派 |
外国を排除すべき |
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(開明)派 |
西洋の技術文化を取り入れて国力を高めるべき
勝海舟(佐幕)、西郷隆盛(倒幕)、坂本龍馬(攘夷から変わった) |
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(尊皇攘夷)派 |
尊王+攘夷
吉田松陰、高杉晋作
※吉田松陰は、松下村塾の指導者で門下生としては高杉晋作、伊藤博文他多数います。 |
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(公武合体)派 |
朝廷と幕府で協力していくべき
徳川慶喜 |
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日米修好通商条約
1858年 |
大老の井伊直弼(いい なおすけ)は、(日米修好通商)条約を結びました。
日本にとって不平等な条約でした。 |
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井伊直弼画像/Wikipediaより引用
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条約の内容 |
神奈川(横浜)、(新潟)、長崎、(兵庫(神戸))を開港しました。 |
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日本に(関税自主)権がありませんでした。 |
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(領事裁判)権を認めました。アメリカ人が日本で犯罪したら、アメリカの領事がアメリカ人の裁判を行います。 |
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(片務的(へんむてき)最恵国待遇)を保証しました。日本がアメリカ以外の国と条約を結びその条件が相手側に良い条件であればアメリカにも適用されます。逆にアメリカが日本以外の国と条約を結んでも日本には関係ありませんでした。 |
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(孝明)天皇の勅許を得ていない状態でした。
→問題になりました。 |
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(安政)五カ国条約
同じ内容の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びました。
貿易が開始されました。主な輸出品は生糸で、輸入品は毛織物と綿織物です。
金と銀の交換比率が日本は1:5で外国では1:15でした。そのため金が国外に流出しました。
(国外から銀を持ち込んで金に交換) |
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国外の状況 |
1856~1860年 アロー戦争(第二次アヘン戦争)
イギリス・フランス連合軍が(清国)に勝利しその圧力もありました。 |
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安政の大獄
南紀派と
一橋派の
対立 |
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1858年 |
将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
井伊直弼ら(南紀)派は14代将軍を紀州藩の徳川慶福(よしとみ)に決めました。
徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら(一橋)派は、一橋慶喜を推していました。
徳川慶福は、徳川(家茂(いえもち))に名を改めました。 |
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1858~1859年 |
(安政の大獄)
井伊直弼は、日米修好通商条約の締結と将軍の後継者について反対や批判する尊王攘夷派や一橋派の100人以上を弾圧しました。
吉田松陰は処刑されました。 |
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1860年 |
(桜田門外)の変
井伊直弼は江戸城の桜田門近くで(尊王攘夷)派の浪士達によって暗殺されました。幕政の権威は失墜しました。 |
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公武合体政策
公は朝廷で武は幕府を意味し関係を深めようという政策です。
1862年 |
(和宮(かずのみや))降嫁(こうか)
老中の安藤信正は、孝明天皇の妹の(和宮(かずのみや))と14代将軍の徳川家茂の結婚に尽力し1862年に婚礼が行われました。 |
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和宮親子内親王の肖像画/Wikipediaより引用
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1862年 |
坂下門外の変
老中の(安藤信正)は(尊王攘夷)派の怒りをかって襲われて重傷を負い、老中を辞めました。 |
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薩摩藩の動き
薩摩藩 |
薩摩藩の場所(現在の鹿児島県)
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1862年
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(文久)の改革
薩摩藩の(島津久光)が、安政の大獄で処分されていた(一橋慶喜)を将軍後見職に、(松平春嶽(しゅんがく))を政事総裁職にして幕政に復帰させました。
また京都守護職を新設し、会津藩主(松平容保(かたもり))を任命しました。 |
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島津久光像/Wikipediaより引用
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1862年 |
(生麦(なまむぎ))事件
(島津久光)は、江戸から帰国しようとしたときに行列の中に入ったきたイギリス人を殺してしまいました。生麦は横浜にある地名です。 |
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『生麦之発殺』(早川松山画)/Wikipediaより引用
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1863年 |
(薩英)戦争
生麦事件の結果、(イギリス)と薩摩藩で戦闘が行われました。
薩摩藩は、外国の実力を知り攘夷一辺倒ではなくなっていきました。 |
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イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘/Wikipediaより引用
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長州藩の動き
当初は、攘夷派でしたが四国艦隊下関砲撃事件で攘夷一辺倒ではなくなりました。
長州藩 |
長州藩の場所(現在の山口県)
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1863年 |
英国公使館焼き討ち事件
品川御殿山の建設中のイギリス公使館を焼打ちしました。 |
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1863年 |
(下関事件)
関門海峡を通過しようとした外国船を砲撃しました。 |
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フランスの通報艦キャンシャン号の被害/Wikipediaより引用
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1863年 |
(八月十八日の政変)
公武合体派の薩摩藩と会津藩によって長州派の公家7名(攘夷派)が京都から追放されました。 |
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1864年 |
(池田屋事件)
(新選)組(佐幕派)によって尊王攘夷派が襲撃されました。 |
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近藤勇(国立国会図書館蔵)/Wikipediaより引用
近藤勇は、新選組局長です。
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1864年 |
(蛤御門の変(禁門の変))
(池田屋)事件を受けて長州藩は京都で幕府側の会津藩・桑名藩・薩摩藩と戦闘になりますが破れて撤退しました。 |
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禁門の変/Wikipediaより引用
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1864年 |
(四国艦隊)下関砲撃事件
(下関)事件の報復で、イギリス、フランス、オランダ、アメリカに攻められました。
→外国の実力を知り、攘夷一辺倒ではなくなりました。 |
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四国連合艦隊による下関砲撃/Wikipediaより引用
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1864年 |
第一次長州征討
(蛤御門の変)を罰するため幕府軍が(長州)藩を攻めにいきましたが(長州)藩は降伏し戦闘は行われませんでした。 |
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西洋式軍装に身を包んだ幕府軍(1865年)/Wikipediaより引用
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その後、長州藩は倒幕派の(高杉晋作)が実権を握り(大村益次郎)を登用して改革を行いました。 |
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左:高杉晋作、右:靖国神社参道の中央にある大村益次郎像/Wikipediaより引用
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高杉晋作は、(奇兵)隊を創設しました。(奇兵)隊には藩士以外の庶民なども属していました。 |
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1866年 |
(薩長)同盟
薩摩と長州は敵対的な関係でしたが(坂本龍馬)と中岡慎太郎の仲介により同盟しました。
薩摩藩は小松帯刀と(西郷隆盛)、長州藩は木戸孝允です。 |
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坂本龍馬/Wikipediaより引用
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1866年 |
第二次長州征討
幕府軍が(長州)藩を攻めにいきましたが(長州)藩に破れました。
要因1:薩摩藩は、(長州)藩と同盟を結んでいたため出兵しなかった。
要因2:(長州)藩は外国の新型武器を揃えていた。 |
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大政奉還
1867年5月 |
四侯会議(しこうかいぎ)
今後の政治について話し合いが行われました。
参加者は、(徳川慶喜)と四侯の島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂です。 |
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徳川慶喜/Wikipediaより引用
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1867年11月9日
(慶応3年10月14日) |
大政奉還
15代将軍(徳川慶喜)は、朝廷に政権返上を申し出て朝廷がこれを許可しました。
倒幕の根拠をなくし徳川家を守る狙いや徳川家が主導しての雄藩連合の構想がありました。この同日に薩長は倒幕の密勅を手に入れていました。 |
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「大政奉還図」 邨田丹陵 筆/Wikipediaより引用
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1868年1月3日(慶応3年12月9日) |
王政復古の大号令
薩摩藩、長州藩や公家の岩倉具視などが中心になって、幕府の廃止、摂政・関白等の廃止、三職の設置(総裁・議定・参与)を決定し新政府が発足しました。
岩倉具視は500円札の肖像画になっています。 |
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五百円紙幣 岩倉具視/Wikipediaより引用
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1868年1月3日(慶応3年12月9日) |
(小御所)会議
王政復古が出された夜に行われました。明治天皇も出席する御前会議(ごぜんかいぎ)です。その結果、徳川慶喜の(内)大臣辞退と(領地)返上(辞官納地)が決定しました。
旧幕府側の不満が高まり、(戊辰)戦争へと繋がります。 |
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京都御所の小御所/Wikipediaより引用
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1867年 |
(ええじゃないか)
近畿、四国、東海地方などで民衆が「(ええじゃないか)」と言いながら踊り歩く騒動が発生しました。 |
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「ええじゃないか」騒動に興じる人々。/Wikipediaより引用
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日本史の流れの概要(明治:戊辰戦争~自由民権運動)