日本史の流れの概要(明治:条約改正~日露戦争)

日本史の流れの概要です。明治の条約改正から日露戦争までです。

目次

条約 不平等条約の改正
戦争 日清戦争
  日露戦争
  韓国併合と満州進出
政治 内閣と政党
  選挙と議会

不平等条約の改正

(領事裁判権)の撤廃と(関税自主権)の回復のため各国と条約改正の交渉を行いました。

岩倉具視 1871~1873年、(岩倉)使節団としてアメリカや欧州を視察しました。

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左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通/Wikipediaより引用

 
寺島宗則 アメリカと(関税自主権)の回復を合意しましたがドイツとイギリスの反対で無効になりました。

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寺島宗則像(黒田清輝画、東京国立博物館蔵)/Wikipediaより引用

 
井上馨
外務大臣
(領事裁判権)を撤廃する代わりに外国人判事を任用する案を出しました。
(鹿鳴館)建設などの欧化政策と1886年の(ノルマントン号)事件(※)で批判が集まり条約改正は達成できませんでした。
※ 日本人乗客が水死した船のイギリス人船長が領事裁判権で無罪になりました。

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左:井上馨、右:鹿鳴館/Wikipediaより引用

 
大隈重信
外務大臣
(大審院)(現在の最高裁)に(外国人)裁判官を任用する案を出しました。
テロに遭い外相を辞任しました。

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大隈重信/Wikipediaより引用

 
青木周蔵
外務大臣
1891年(明治24年)の(大津)事件(※)で外相を辞任しました。
※来日中のロシア皇太子に巡査が重傷を負わせた事件。
このときの裁判で大審院長の(児島惟謙(これかた))は司法権の独立を守り政府の意向(死刑)でなく無期の判決を下しました。この判決は各国からは評価されました。

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左:青木周蔵、右:児島惟謙/Wikipediaより引用

 
陸奥宗光
外務大臣

1894年(明治27年)、日英通商航海条約で(領事裁判)権の撤廃と(関税自主)権の一部を回復しました。
(最恵国待遇)の双務化も達成しました。
他の国々とも条約改正しました。

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陸奥 宗光/Wikipediaより引用

 
小村寿太郎
外務大臣
1911年(明治44年)、日米通商航海条約で(関税自主権)の回復に成功しました。

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Portrait of Komura Jutaro/Wikipediaより引用

 

日清戦争

日本と清は朝鮮をめぐり対立しました。

1875年
(明治8年)
(江華島)事件
日本の軍艦と朝鮮の砲台が交戦しました。

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永宗城を攻撃する雲揚の兵士ら(想像図)/Wikipediaより引用

 
1876年
(明治9年)
日朝修好条規
(江華島)事件をきっかけに日本と朝鮮で結ばれた条約です。

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1882年
(明治15年)
壬午事変(じんごじへん)
朝鮮の(漢城)(現ソウル)で起こった暴動。(閔(びん)氏)(改革派)と(大院君)(保守派)の対立がありました。
日本と清国が介入しました。
日本は朝鮮と(済物浦(さいもっぽ))条約を結びました。

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襲撃された日本公使館/Wikipediaより引用

 
1884年
(明治17年)
甲申事変(こうしんじへん)
朝鮮で起こった(金玉均)ら独立党(開化派)によるクーデター。
閔氏(親清派・保守派)らの勢力の一掃を図ったが清国軍の介入で失敗しました。
日本は朝鮮と(漢城)条約を結びました。

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金玉均/Wikipediaより引用

 
1885年 
(明治18年)
天津条約
日清両国が、同時撤兵などで調印しました。
朝鮮に出兵するときはお互いに通知することになりました。
日本側全権は(伊藤博文)、清国側全権は(李鴻章)です。

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伊藤博文・李鴻章/Wikipediaより引用

 
1894年
(明治27年)
甲午農民戦争(東学党の乱)
朝鮮南部で起きた大規模な農民の内乱です。
(清国)と日本は朝鮮に出兵しました。

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甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文/Wikipediaより引用

 
1894年
(明治27年)
日清戦争
日本は挙国一致で戦争に臨みました。
(黄海)海戦では日本の連合艦隊は清の北洋艦隊を破りました。

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黄海海戦を描いた浮世絵(「於黄海我軍大捷 第一図」画:小林清親)/Wikipediaより引用

 
1895年 
(明治28年)
下関条約
日本と清で結ばれました。
全権は、日本側が(伊藤博文)と陸奥宗光で清国側は(李鴻章)です。
内容:
・朝鮮半島の独立の承認
・(遼東半島)・台湾・澎湖諸島の割譲
・賠償金()億両(約3億円)

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遼東半島の場所

 
1895年
(明治28年)
(三国干渉)
(ロシア)とフランスとドイツは、遼東半島の返還を要求し日本は返還しました。
ロシアに対し「(臥薪嘗胆)」という言葉が使われました。

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日露戦争

ロシアの満州占領は日本の脅威でした。

1900年
(明治33年)
義和団の乱、北清事変
中国で(義和団)(宗教結社)と農民による排外運動が起こりました。
(扶清滅洋)というスローガンです。
清国もこれに乗じて各国に宣戦布告しましたが日本を含む(8)カ国の連合軍に鎮圧されました。
(ロシア)は満州を軍事占領しました。
清は各国と(北京)議定書を結びました。

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連合軍の兵士/Wikipediaより引用

 
1902年
(明治35年)
第1次日英同盟
(ロシア)の南下に対抗するために結ばれました。

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1904年2月~1905年9月 
(明治37年~
明治38年)

日露戦争
戦費に使うためアメリカやイギリスで外債を募集しました。

陸軍:遼陽、沙河、旅順(乃木希典)、奉天で戦闘。
海軍:日本の連合艦隊(東郷平八郎)はロシアの(バルチック)艦隊を破りました。(日本海海戦)

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連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将/Wikipediaより引用

 
1905年
(明治38年)
ポーツマス条約 
日本とロシアで結ばれました。
アメリカの(ルーズベルト)大統領の仲介です。
全権は、日本側が(小村寿太郎)でロシア側はウィッテ。

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内容

・日本の朝鮮に対する指導権
・(長春)以南の鉄道
・(旅順)と大連の租借権
・南樺太の領有権
・(沿海州)の漁業権

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左:旅順と大連と長春の場所、右:沿海州の場所

 
1905年
(明治38年)
(日比谷)焼打事件
ポーツマス条約で(賠償金)を得られなかったことに対して民衆が暴徒化しました。
軍隊が出動して鎮圧しました。

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焼き打ちに遭った施設/Wikipediaより引用

 

韓国併合と満州進出

日本の韓国併合と満州進出の動きです。

1904年2月
(明治37年)
日韓議定書
(内政干渉)の権利と軍事行動の自由を得ました。

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1904年8月
(明治37年)
(第一次日韓)協約
財政顧問、外交顧問を雇用することを決めました。
 
1905年11月
(明治38年)
第二次日韓協約
韓国の(外交)権を接収しました。
 
1905年12月
(明治38年)
統監府を設置
統監府を設置しました。韓国は日本の保護国になりました。
初代統監は、(伊藤博文)です。

確認

 

統監府庁舎/Wikipediaより引用

 
1907年6月
(明治40年)
ハーグ密使事件 
韓国の皇帝(高宗)が(ハーグ万国平和)会議に外交権の回復を訴えたが失敗した事件。

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密使を担った三人:(左から)李儁、李相卨、李瑋鍾/Wikipediaより引用

 
1907年7月
(明治40年)
第三次日韓協約
韓国の(内政)権を接収しました。
→反日運動(義兵運動)が広がった。

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1909年10月
(明治42年)
伊藤博文が暗殺される
ハルビンで安重根によって暗殺されました。
 
1910年8月
(明治43年)
日韓併合条約
日本が韓国を併合しました。
→(朝鮮総督府)が設立されました。日本が設置した統治機関です。
初代総督は(寺内正毅)。

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満州への進出

1906年10月
(明治39年)
旅順に(関東都督府)を設置しました。

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旅順の場所

 
1906年11月
(明治39年)
南満州鉄道会社を設立しました。半官半民の国策会社です。
初代総裁は(後藤新平)です。

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南満洲鉄道本社(大連)/Wikipediaより引用

 

内閣と政党

明治時代の内閣と政党の動きです。

第一次
伊藤博文内閣
1885年12月~1888年4月(明治18年~明治21年)
最初の内閣
 
黒田清隆内閣 1888年4月~1889年10月(明治21年~明治22年)
1889年に(超然主義)演説を行いました。政府は政党の影響を受けないという趣旨です。

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第一次
山縣有朋内閣
1889年12月~1891年5月(明治22年~明治24年)
(教育勅語)を発布。道徳教育に関するもので勅語とは天皇からのお言葉を意味します。
第1議会閉会直後に総辞職しました。
 
第一次
松方正義内閣
1891年5月~1892年8月(明治24年~明治25年)
第二回衆議院総選挙(1892年2月)の選挙で(品川弥二郎)内相を中心に選挙干渉を行いました。

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第二次
伊藤博文内閣
1892年8月~1896年9月(明治25年~明治29年)
(元勲)内閣。(日清)戦争が始まる
自由党の(板垣退助)が入閣しました。
→藩閥政府と政党の体制(挙国一致の体制)
 
第二次
松方正義内閣
1896年9月~1898年1月(明治29年~明治31年)
進歩党の大隈重信が外相になったので(松隈(しょうわい))内閣と呼ばれる
→藩閥政府と政党の体制

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第三次
伊藤博文内閣
1898年1月~1898年6月(明治31年)
(地租増微)案について(自由)党と(進歩)党の賛成を得られず解散。
 
第一次
大隈重信内閣
1898年6月~1898年11月(明治31年)
(憲政)党による日本初の政党内閣
(自由)党(板垣退助)と(進歩)党(大隈重信)が憲政党を結成した
板垣退助も入閣したので(隈板(わいはん))内閣と呼ばれる
この内閣は(尾崎行雄)文相の(共和演説)事件で短命に終わりました

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第二次
山縣有朋内閣
1898年11月~1900年10月(明治31年~明治33年)
(軍務大臣現役武官制)を制定。(治安警察)法の公布。
 
第四次
伊藤博文内閣
1900年10月~1901年6月(明治33年~明治34年)
伊藤博文と憲政党員(旧自由党系)は(立憲政友会)を結成。
立憲政友会中心の内閣。伊藤博文は立憲政友会の総裁です。

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第一次
桂太郎内閣
1901年6月~1906年1月(明治34年~明治39年)
(日露)戦争が起こる。
以後、桂太郎と西園寺公望が交互に組閣したので(桂園)時代と呼ばれます。
 
第一次
西園寺公望内閣
1906年1月~1908年7月(明治39年~明治41年)
日露戦争後の朝鮮、満州に対する政策などを行った。
西園寺公望は立憲政友会の総裁。

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第二次
桂太郎内閣
1908年7月~1911年8月(明治41年~明治44年)
社会主義運動を取り締まる方針をとった。
 
第二次
西園寺公望内閣
1911年8月~1912年12月(明治44年~明治45年/大正元年)
(上原勇作)陸軍大臣は(2個師団)増設案を拒否されたので辞表した。
陸軍は後任を出さなかっため内閣は総辞職した。
((軍部大臣現役武官制)のため)

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選挙と議会

第一回
衆議院総選挙
1890年7月(明治23年)
自由民権派の(立憲自由)党と(立憲改進)党で過半数を締めました。
()党と呼ばれます。
選挙権は直接国税を(15)円以上納める(25)歳以上の男子のみだった。

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第一回
帝国議会
1890年11月~1891年3月(明治23年~明治24年)
(貴族)院と(衆議)院の二院制。
(衆議)院は国民の選挙によって選ばれました。
 
第二回
帝国議会
1891年11月~1891年12月(明治24年)
(樺山資紀)海相が蛮勇演説を行い議会は解散しました。
 

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