日本史の流れの概要(明治:条約改正~日露戦争)

日本史の流れの概要です。明治の条約改正から日露戦争までです。

目次

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条約改正

領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復のため各国と条約改正の交渉を行いました。

岩倉具視 岩倉使節団としてアメリカや欧州を視察しました。
寺島宗則 アメリカと関税自主権の回復を合意しましたがドイツとイギリスの反対で無効になりました。
(井上馨)
外務大臣
領事裁判権を撤廃する代わりに外国人判事を任用する案を出しました。
(鹿鳴館)建設などの欧化政策と1886年の(ノルマントン号)事件(※)で批判が集まり条約改正は達成できませんでした。
※ 日本人乗客が水死した船のイギリス人船長が領事裁判権で無罪となる
 
「鹿鳴館」/Wikipediaより引用
大隈重信
外務大臣
大審院(現在の最高裁)に外国人裁判官を任用する案を出しました。
テロに遭い外相を辞任しました。
青木周蔵
外務大臣
1891年の(大津)事件(※)で外相を辞任しました。
※来日中のロシア皇太子に巡査が重傷を負わせた事件。
このときの裁判で大審院長の児島惟謙(これかた)は司法権の独立を守り政府の意向(死刑)でなく無期の判決を下しました。この判決は各国からは評価されました。
(陸奥宗光)
外務大臣
1894年、日英通商航海条約で(領事裁判権)の撤廃と関税自主権の一部を回復しました。最恵国待遇の双務化も達成しました。
他の国々とも条約改正しました。
(小村寿太郎)
外務大臣
1911年、日米通商航海条約で(関税自主権)の回復に成功しました。

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日清戦争

日本と清は朝鮮をめぐり対立しました。

1875年 江華島事件 日本の軍艦と朝鮮の砲台が交戦した事件
1876年 日朝修好条規 江華島事件をきっかけに日本と朝鮮で結ばれた条約
1882年 (壬午)事変
(じんごじへん)
朝鮮の漢城(現ソウル)で起こった暴動。閔氏(改革派)と大院君(保守派)の対立がありました。日本と清国が介入しました。
日本は朝鮮と済物浦条約を結びました。
1884年 (甲申)事変
(こうしんじへん)
朝鮮で起こった金玉均ら独立党(開化派)によるクーデター。閔氏(親清派・保守派)らの勢力の一掃を図ったが清国軍の介入で失敗しました。
日本は朝鮮と漢城条約を結びました。
1885年 (天津)条約 日清両国が、同時撤兵などで調印した。
朝鮮に出兵するときはお互いに通知することになりました。
日本側全権は(伊藤博文)、清国側全権は(李鴻章)。
1894年 甲午農民戦争
(東学党の乱)
朝鮮南部で起きた大規模な農民の内乱。
清国と日本は朝鮮に出兵しました。
1894年 (日清)戦争 黄海海戦では日本の連合艦隊は清の北洋艦隊を破りました。
日本が勝利。
1895年 (下関)条約 日本と清で結ばれました。
全権は、日本側が伊藤博文と陸奥宗光で清国側は李鴻章。
・朝鮮半島の独立の承認
・遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲
・賠償金2億両(約3億円)
1895年 三国干渉 ロシアと(フランス)と(ドイツ)は、遼東半島の返還を要求し日本は返還しました。ロシアに対し「臥薪嘗胆」という言葉が使われました。

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日露戦争

ロシアの満州占領は日本の脅威でした。

1900年 (義和団の乱)
(北清事変)
義和団と農民による排外運動が起こった(扶清滅洋)。
清国もこれに乗じて各国に宣戦布告したが日本を含む8カ国の連合軍に鎮圧された。ロシアは満州を軍事占領しました。
清は各国と北京議定書を結びました。
1902年 第1次日英同盟 ロシアの南下に対抗するために結ばれました。
1904年 日露戦争 日本海海戦では日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を破りました。
日本が勝利。
1905年 (ポーツマス)条約 日本とロシアで結ばれました。
全権は、日本側が小村寿太郎でロシア側はウィッテ。
アメリカのルーズベルト大統領の仲介です。
・日本の朝鮮に対する指導権
・長春以南の鉄道権
・旅順と大連の租借権
・南樺太の領有権
・沿海州の漁業権
1905年 (日比谷焼打)事件 ポーツマス条約で賠償金を得られなかったことに対して暴徒化しました。
軍隊が出動して鎮圧しました。

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日露戦争後

日露戦争後の日本の対外的な動きです。

1905年 第2次日韓協約 韓国の外交権を接収しました。
1906年 関東都督府 旅順に関東都督府が設置されました。
1906年 南満州鉄道 南満州鉄道会社が設立されました。半官半民です。
1907年 ハーグ密使事件 韓国の皇帝がハーグ万国平和会議に外交権の回復を訴えようとした事件。
1907年 第1次日露協約 満州権益を相互に承認しました。
1907年 第3次日韓協約 韓国の内政権を接収しました。
1909年 伊藤博文が暗殺される 安重根によって暗殺されました。
1910年 日韓併合条約 日本が韓国を併合しました。
1910年 朝鮮総督府 朝鮮総督府が設立されました。日本が設置した統治機関です。
初代総督は寺内正毅です。

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内閣と政党

明治時代の内閣と政党の動きです。

1885年 第1次伊藤内閣 最初の内閣
1888年 黒田内閣 1889年に(超然主義)演説を行いました
1890年 第一回衆議院総選挙 自由民権派の(民党)が過半数を締めました
1892年 蛮勇演説 樺山資紀海相が蛮勇演説を行い議会は解散しました
1892年 第二回衆議院総選挙 政府は選挙干渉を行いました
1892年 第二次伊藤内閣 (元勲)内閣。日清戦争が始まる
自由党の(板垣退助)が入閣しました
→藩閥政府と政党の体制
1896年 第二次松方内閣 進歩党の大隈重信が外相になったので(松隈(しょうわい))内閣と呼ばれる
→藩閥政府と政党の体制
1898年 第一次大隈内閣 (憲政)党による初の政党内閣
(自由)党(板垣退助)と(進歩)党(大隈重信)が憲政党を結成した
板垣退助も入閣したので(隈板(わいはん))内閣と呼ばれる
この内閣は尾崎行雄文相の共和演説事件で短命に終わりました
1898年 第二次山形内閣 軍務大臣現役武官制を制定。治安警察法の公布。
1900年 立憲政友会を結成 旧自由党系が伊藤博文を擁立して結成しました
1900年 第四次伊藤内閣 伊藤博文は立憲政友会の総裁です
1901年 第一次桂内閣 以後、桂太郎と西園寺公望が交互に組閣したので(桂園)時代と呼ばれる
1906年 第一次西園寺内閣 西園寺公望は立憲政友会の総裁です
1908年 第二次桂内閣  
1911年 第二次西園寺内閣  

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