日本の歴史の織田信長の時代です。
織田信長 | 織田信長の誕生 |
織田信長の戦い | |
実施した政策・他関連 |
織田信長の誕生
1534年 (天文3年) |
(尾張)国(現在の愛知県)で織田(信秀)の嫡男として誕生しました。 幼名は吉法師(きっぽうし)です。 父親の葬儀で位牌に焼香を投げるなど大うつけ呼ばれていました。 |
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1543年 (天文12年) |
鹿児島県の種子島に(鉄砲)が伝来しました。 領主の種子島時尭は、(鉄砲)を購入し後に全国へ広まっていきました。 |
織田信長の戦い
1560年 (永禄3年) |
(桶狭間(おけはざま))の戦い 織田信長率いる約3000の軍勢は、京都へ上洛する(今川義元)の約2万5000の軍勢に奇襲し破りました。 その後織田家は台頭し今川家は弱体化していきました。 |
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1567年 (永禄10年) |
(稲葉山城)の戦い 美濃国(岐阜県)の斎藤龍興を破り稲葉山城を(岐阜)城と改名し居城としました。天下布武の印判の使用を始めました。 |
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1568年 (永禄11年) |
(足利義昭)を奉じて入京しました。13代将軍足利義輝の弟です。 足利義昭は室町幕府の第15代将軍になりました。 織田信長は堺から軍資金として(2万)貫を徴収しました。 堺の商人は(会合衆)と呼ばれます。 足利義昭は織田信長を副将軍に任命しようとしましたが織田信長は拒否し対立が深まりました。 足利義昭、石山本願寺、浅井、朝倉、武田など信長包囲網が形成されていきました。 |
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1570年 (永禄13年) |
(金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)) 織田信長軍が越前の朝倉義景を攻めたところ、織田信長の妹婿の(浅井長政)が裏切り織田信長軍は撤退しました。 殿(しんがり)は木下藤吉郎(豊臣秀吉)でした。 織田信長が逃げたルートは(朽木越え(くちきごえ))と呼ばれます。 |
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1570年 (永禄13年) |
(姉川)の戦い 織田信長と(徳川家康)の連合軍(約2万人)対浅井長政と(朝倉義景)の連合軍(約1万5千人)の戦いで 織田信長・徳川家康連合軍が勝利しました。 |
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1570~1580年 (永禄13年~ 天正8年) |
石山本願寺の顕如と戦いました。(石山)戦争(1570~1580年)と呼ばれます。各地の一向一揆とも戦いました。 1571年(延暦寺)を焼き打ちしました。 1573年足利義昭を追放し室町幕府は滅亡しました。 |
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1573年 (元亀3年) |
(三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)) 京都へ上洛する(武田信玄)と徳川家康・織田信長の戦い。 徳川家康・織田信長軍は敗退しましたが、武田信玄の病状悪化に伴い武田信玄軍は撤退しました。 場所は、静岡県浜松市です。 |
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1575年 (天正3年) |
(長篠)の戦い 織田信長・徳川家康連合軍は、鉄砲隊を用意し武田勝頼軍の騎馬隊に勝利しました。 |
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1579年 (天正7年) |
(安土城)が完成しました。 |
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安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した伊勢安土桃山城下街にある天守風建物by D-one, CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons |
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1582年 (天正10年) |
(天目山)の戦い 織田信長軍は武田氏を滅ぼしました。 |
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1582年 (天正10年) |
(本能寺)の変 織田信長は、京都本能寺にて(明智光秀)の謀反により自害しました。 織田信長の嫡男の織田(信忠)も自害しました。 このとき家臣の(柴田勝家)は上杉と交戦中で越中に、(羽柴秀吉)は毛利攻めで備中高松に、丹羽長秀は大阪に、大名の徳川家康は、大阪の堺にいました。 |
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実施した政策・他関連
(楽市・楽座) | 商人の特権を廃止し街が活性化しました。 |
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(関所) | (関所)を廃止し行き来を自由にしました。 物流が活発化し商業が栄えました。 |
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検地 | 畿内を中心に土地所有者を決めました。 | |
キリスト教 | (南蛮寺)の設立と布教を許可しました。 |
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リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風(部分)/Wikipediaより引用 |
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(堺) | (堺)から自治権を奪いました。 |
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幸若舞の(敦盛)の一節 | 織田信長が好んで演じたと言われています。 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」 |
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