日本史の流れの概要(明治:戊辰戦争~自由民権運動)

日本史の流れの概要です。戊辰戦争から大日本帝国憲法の制定までです。

目次

内戦 戊辰戦争
近代化 明治新政府の政策と近代化
反乱 元武士たちの反乱
民権運動 自由民権運動
デフレ政策 松方財政 / 激化事件

戊辰戦争

1868年 (小御所)会議での徳川(慶喜)への辞官納地(内大臣を辞めさせ領地も返還)の決定から幕府側の不満が高まり、新政府軍と旧幕府軍の戦いが起こりました。(戊辰(ぼしん))戦争と呼ばれます。
新政府軍は、(有栖川宮熾仁親王)を東征大都督にしました。

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1868年1月 (鳥羽・伏見)の戦い
京都で新政府軍と旧幕府軍が戦いました。新政府軍は(錦の御旗(にしきのみはた))を掲げて戦い、旧幕府軍は敗退しました。
(錦の御旗(にしきのみはた))は、天皇に認められた官軍を表す旗です。

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1868年4月 江戸無血開城
江戸が戦場になることを避けるため、新政府軍の(西郷隆盛)と旧幕府軍の(勝海舟)が会談し無抵抗で江戸城を開城しました。

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左:肥後直熊筆「西郷隆盛像」(黎明館蔵)右:勝海舟/Wikipediaより引用

 
1868年5月 上野戦争
旧幕臣ら3000名は、上野の寛永寺に(彰義隊)を結成して立て籠りました。新政府軍の(大村益次郎)らは大砲を使用して鎮圧しました。

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1868年5~11月 東北の諸藩は(奥羽越列藩)同盟を結成するも新政府軍に降伏していきました。
会津戦争では16-17歳の少年たちが自決する(白虎隊)の悲劇がありました。(福島県)

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1869年5月 (五稜郭)の戦い
箱館(函館)の五稜郭に、旧幕府軍の(榎本武揚)らは立て籠りました。
旧幕府軍は降伏し戊辰戦争は終結しました。

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                 五稜郭設計図/Wikipediaより引用

 

明治新政府の政策と近代化

政府は列強に対抗するため富国強兵を合言葉にしました。
庶民の暮らしも欧米の影響で変わりました。文明開化とも呼ばれます。

1868年
(明治元年)
(五箇条の御誓文)
明治天皇が神に誓う形で政治方針を表明しました。
国外にアピールする狙いもありました。

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  (五榜)の掲示
庶民向けの方針を示しました。
キリシタンの禁止や外国人への暴行禁止などがありました。

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  明治天皇が東京入りしました。  
  神仏分離令
(神道)を国教とするため発令しました。その結果、反仏教の運動が起こりました。(廃仏毀釈)と呼ばれています。

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1869年
(明治2年)
(版籍奉還)
大名の版(領地)と籍(領民)を国に返還しました。
藩主は(知藩事)になり、石高に代わり(家禄)が支給されました。

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  版籍奉還時に士農工商から四民平等になりました。
(華族)(藩主や公家)、(士族)(武士)、(平民)(農工商、えた・ひにん)
平民にも苗字が認められました。
→1872年、(壬申戸籍)が作られました。

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  (開拓使)の設置
蝦夷地から北海道に名称が変わり、(開拓使)という役所が設置されました。
士族などが移住しました。(屯田兵)制度が開始されました。

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1871年
(明治4年)
(廃藩置県)
藩を廃止して県にし、国から(府知事)や(県令)を派遣しました。
旧大名の知藩事は(華族)になりました。
当初は、3府302県ありましたが1871年11月には3府(72)県になりました。
3府とは、東京・大阪・京都です。
この結果、中央集権的な体制となりました。

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  1871~1873年 (岩倉)使節団
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが欧米視察と(不平等条約)の改正のために渡航しました。(不平等条約)の改正はできませんでしたが欧米の近代化の思想や技術を持ち帰りました。

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左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通/Wikipediaより引用

 
  断髪令
髷(まげ)を結わなくてよくなりました。
「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という歌が流行りました。
 
  廃刀令
帯刀(刀を腰につける)が禁止されました。
→1876年に廃刀令が発布されました。
 
  (新貨)条例
貨幣の単位が()と()と()になりました。1両を1円としました。

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  (身分解放)令
えた・ひにんなどの呼称も廃止されました。

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  郵便
(前島密)らによって郵便制度が開始されました。江戸時代は飛脚でした。

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1円普通切手(前島の肖像)/Wikipediaより引用

 
1872年
(明治5年)
日本初の鉄道が、(新橋)と(横浜)間で開設されました。
(福沢諭吉)の「学問のすすめ」が売れました(1872年初編出版)。

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  1872年学制公布、1879年教育令公布、1886年学校令公布、1890年(教育勅語)発布。
全国民が義務教育を受けることになりました。(国民皆学)

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  (富岡製糸場)が開業しました。日本初の官営工場で群馬県にあります。
各地に官営工場が建設されました。

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1873年
(明治6年)
太陰暦から(太陽)暦に変わりました。
徴兵令
基本20歳以上の男子に(3)年間の徴兵義務が課せられました。(国民皆兵)
→家の労働力を奪われるので各地で(血税)一揆が発生しました。

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  江戸時代の(田畑永代売買禁止)令を解除し(地券)を発行しました。
(地租改正)条例で税の収め方が農作物から金納(お金)に変わりました。
地価の(3)%を払います。地券は、土地の所有権を示す証券で土地の私有権が認められました。
→各地で地租軽減を求める地租改正反対一揆が発生し1877年に税率が(2.5)%になりました。

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1879年(明治12年)発行の地券/Wikipediaより引用

 
1875年
(明治8年)
樺太・千島交換条約
日本とロシア帝国との間で国境を決めました。
(樺太)はロシア領で(千島)全島は日本領になりました。日本の全権は(榎本武揚)です。
※1855年の日露和親条約では、択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間が国境線で、樺太は国境はなく日露どちらが来ても良いとなっていました。

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千島列島の日露境界(実効支配を含む)の推移/Wikipediaより引用

 
1876年
(明治9年)
札幌農学校が開校式を挙行しました。北海道大学の前身です。
初代教頭はアメリカの(クラーク)です。

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1890年代
(明治中頃)
(足尾銅山鉱毒)事件
急な近代化政策によって公害問題も起こりました。
(田中正造)が問題に取り組みました。

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元武士たちの反乱

征韓論 (李氏朝鮮)は鎖国していて日本と国交を結びませんでした。それに対して武力で開国させようという(西郷隆盛)、板垣退助らの主張が征韓論です。背景には失業した武士たちの存在もありました。

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1873年
(明治6年) 
(明治六年の政変)
岩倉使節団で帰国した岩倉具視や(大久保利通)らの反対で征韓論は中止になり、西郷らは政府を去りました。

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1874年
(明治7年) 
(佐賀)の乱
佐賀県で(江藤新平)ら士族が反乱を起こしました。

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1876年
(明治9年) 
(秩禄)処分
華族や士族の給料が廃止されました。代わりに(公債証書)を支給しました。しかし士族は、士族の商法で失敗していきました。

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1876年
(明治9年) 
(秋月(あきづき))の乱
福岡県で起きた士族の反乱です。

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1876年
(明治9年) 
(神風連(しんぷうれん))の乱
熊本県で起きた士族の反乱です。

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1876年
(明治9年) 
()の乱
山口県で起きた士族の反乱です。

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1877年
(明治10年) 
(西南)戦争
九州の各地で起きた士族の最大の反乱です。
リーダーは(西郷隆盛)です。

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西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)/Wikipediaより引用

 
1878年
(明治11年)
(紀尾井坂)の変
不平士族らによって(大久保利通)が暗殺されました。

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自由民権運動

1874年
(明治7年)
1874年、板垣退助、江藤新平らは、(民撰議院設立建白書)を政府に提出しました。議会の設立を求めるものです。自由民権運動の始まりになりました。目的は、藩閥政治の廃止と議会の設立です。

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  板垣退助らは土佐に(立志社)を設立

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左:板垣 退助 1906年頃(70歳頃)、右:江藤新平/Wikipediaより引用

 
1875年
(明治8年)
板垣退助らは大阪に(愛国社)を設立
→政府は、讒謗律(ざんぽうりつ)、(新聞紙条例)で民権運動を取り締りました。

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1880年
(明治13年)
愛国社を改称して(国会期成同盟)を結成しました
→政府は、(集会条例)で集会を許可制にして対抗しました。

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1881年
(明治14年)
(開拓使官有物払下)事件が起きて政府が批判されました
((黒田清隆)が五代友厚に格安で官有物を払い下げようとしていたため)
→(国会開設の勅諭)で憲法の制定と国会開設を宣言しました。
→伊藤博文は、(大隈重信)を罷免しました。
(明治十四年)の政変と呼ばれます。

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左: 黒田清隆、右: 五代友厚/Wikipediaより引用

 
  板垣退助は(自由党)を結成しました。フランス流です。
機関紙は(自由)新聞です。

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1882年
(明治15年)
大隈重信が(立憲改進党)を結成しました。イギリス流です。
機関紙は(郵便報知)新聞です。

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  福地源一郎が(立憲帝政党)を結成しました。保守的な政党です。
機関紙は(東京日日)新聞です。

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1885年
(明治18年)
(太政官)制を廃止して(内閣)制度が定められました。総理大臣は(伊藤博文)、内務大臣は山県有朋、大蔵大臣は松方正義、外務大臣は井上馨です。

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1886年
(明治19年)
(星亨)らにより(大同団結)運動が起こりました。

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星亨/Wikipediaより引用

 
1887年
(明治20年)
(三大事件建白)運動が起こりました。三大とは、(言論)の自由の確立、(地租)軽減、(外交)の失策の挽回です。井上馨外相の条約改正への不満もきっかけのひとつです。
→政府は(保安条例)を制定して弾圧しました。(後藤象二郎)を入閣させました。

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後藤象二郎/Wikipediaより引用

 

松方財政

(デフレ)政策 (西南)戦争の影響でインフレが起きていました。戦費調達のため不換紙幣を大量に発行したためです。
そのため、大蔵卿の松方正義は、(デフレ)政策を行いました。

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政治家の頃の松方/Wikipediaより引用

 
  緊縮財政で増税を行い、(官営模範工場)の払い下げを行いました。

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1882年
(明治15年)
中央銀行として(日本)銀行を設立しました。

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日本銀行/Wikipediaより引用

 
1885年
(明治18年)
()兌換の日本銀行券を発行し銀本位制としました。
このデフレ政策の結果、不況が起こりました。

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激化事件

不況や増税と政府の弾圧に対して各地で激化事件が起こりました。

1882年
(明治15年)
(福島)事件
県令が自由党員や農民を弾圧しました。

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1884年
(明治17年)
(加波山)事件(かばさんじけん)(茨城)
県令の暗殺を計画しましたが失敗しました。

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1884年
(明治17年)
(秩父)事件(埼玉)
数千人が蜂起しました。

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1885年
(明治18年)
(大阪)事件
朝鮮の政権打倒計画でしたが、事前に逮捕されました。

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