日本史の流れの概要(戊辰戦争~大日本帝国憲法の制定)

日本史の流れの概要です。
このページは、戊辰戦争から大日本帝国憲法の制定までです。

目次

戊辰戦争

1868~1869年に起きた新政府軍と旧幕府軍の戦いを戊辰(ぼしん)戦争と呼びます。

鳥羽・伏見の戦い

1868年1月、京都で新政府軍と旧幕府軍が戦いました。新政府軍は錦の御旗(にしきのみはた)を掲げて戦い、旧幕府軍は敗退しました。錦の御旗は、天皇に認められた官軍を表す旗です。

江戸無血開城

1868年4月、江戸が戦場になることを避けるため、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟が会談し無抵抗で江戸城を開城しました。

上野戦争

1868年5月、上野の寛永寺に、旧幕府勢力は彰義隊を結成して立て籠りました。
新政府軍の大村益次郎らは大砲を使用して鎮圧しました。

東北の諸藩(奥羽越列藩同盟)

1868年5月、東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成するもその後新政府軍に降伏していきました。
1868年9月、会津戦争では16-17歳の少年たちが自決する白虎隊の悲劇がありました。

五稜郭の戦い

1869年5月、箱館(函館)の五稜郭に、旧幕府軍の榎本武揚らは立て籠りました。
旧幕府軍は降伏し戊辰戦争は終結しました。

五稜郭設計図/Wikipediaより引用

明治新政府

五箇条の御誓文

1868年3月、明治天皇が神に誓う形で政治方針を表明しました。
国外にアピールする狙いもありました。

五榜の掲示

1868年3月、庶民向けの方針を示しました。
キリシタンの禁止や外国人への暴行禁止などがありました。

遷都

1868年7月、日本の首都が、京都から東京になりました。

版籍奉還

1869年、大名の版(領地)と籍(領民)を国に返還しました。
藩主は知藩事になり、石高に代わり家禄が支給されました。

廃藩置県

1871年8月、藩を廃止して県にし、国から府知事や県令を派遣しました。
旧大名の知藩事は華族になりました。
当初は、3府302県ありましたが1871年11月には3府72県になりました。
3府とは、東京・大阪・京都です。
この結果、中央集権的な体制となりました。

(廃藩置県/Wikipediaより引用)

近代化

庶民の暮らしも欧米の影響で変わりました。文明開化とも呼ばれます。

  • 身分制度・・・士農工商から四民平等になりました。華族(藩主や公家)、士族(武士)、平民(農工商)です。平民にも苗字が認められました。
  • 断髪令・・・髷(まげ)を結わなくてよくなりました。
  • 廃刀令・・・帯刀(刀を腰につける)が禁止されました。
  • 身分解放令・・・1871年、えた・ひにんなどの呼称も廃止されました。
  • 義務教育・・・全国民が義務教育を受けることになりました。(国民皆学)
    1879年教育令公布、1886年学校令公布、1890年教育勅語発布。
  • 郵便・・・前島密らによって郵便制度が開始されました。
  • 新貨条例・・・1871年、貨幣の単位が円と銭と厘になりました。1両を1円としました。
  • 鉄道・・・日本初の鉄道が、新橋・横浜間で開設されました。
  • 徴兵令・・・1873年、基本20歳以上の男子に3年間の徴兵義務が課せられました。(国民皆兵)
    →家の労働力を奪われるので各地で血税一揆が発生しました。
  • 太陽暦・・・1873年に太陰暦から太陽暦に変わりました。
  • 神仏分離令・・・神道を国教とするため発令しました。その結果、反仏教の運動が起こりました。廃仏毀釈と呼ばれています。
  • 福沢諭吉の「学問のすすめ」が売れました。

富国強兵策

政府は列強に対抗するため富国強兵を合言葉にしました。

  • 岩倉使節団・・・1871~1873年、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが欧米視察と不平等条約の改正のために渡航しました。不平等条約の改正はできませんでしたが欧米の近代化の思想や技術を持ち帰りました。

    (左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通/Wikipediaより引用)
  • 地租改正・・・1873年に地租改正条例が交付され、税の収め方が農作物から金納(お金)に変わりました。地価の3%を払います。地券は、土地の所有権を示す証券で土地の私有権が認められました。
    →各地で地租軽減を求める竹槍一揆が発生し1876年に税率が2.5%になりました。

    (1879年(明治12年)発行の地券/Wikipediaより引用)
  • 各地に官営工場が建設されました。富岡製糸場は日本初の官営工場です。
  • 足尾銅山鉱毒事件・・・急な近代化政策によって公害問題も起こりました。

樺太・千島交換条約

1875年、日本とロシア帝国との間で国境を決めました。
樺太はロシア領で千島全島は日本領になりました。日本の全権は榎本武揚です。
(1855年の日露和親条約では、択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間が国境線で、樺太は国境はなく日露どちらが来ても良いとなっていました)

千島列島の日露境界(実効支配を含む)の推移/Wikipediaより引用

元武士たちの反乱

征韓論

李氏朝鮮は鎖国していて日本と国交を結びませんでした。それに対して武力で開国させようという西郷隆盛、板垣退助らの主張が征韓論です。背景には失業した武士たちの存在もありました。岩倉使節団で帰国した岩倉具視や大久保利通らの反対で中止になり、西郷らは政府を去りました。

秩禄処分

1876年、華族や士族の給料が廃止されました。代わりに公債証書を支給しました。しかし士族は、士族の商法で失敗していきました。

士族の反乱

1874年 佐賀の乱 佐賀県で江藤新平ら士族が反乱を起こしました。
1876年 秋月(あきづき)の乱 福岡県で起きた士族の反乱です。
1876年 神風連(しんぷうれん)の乱 熊本県で起きた士族の反乱です。
1876年 萩の乱 山口県で起きた士族の反乱です。
1877年 西南戦争 九州の各地で起きた士族の最大の反乱です。
西郷隆盛がリーダーです。

(西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)/Wikipediaより引用)

紀尾井坂の変

1878年、不平士族らによって大久保利通が暗殺されました。

 

自由民権運動

1874年、板垣退助らは、民撰議院設立建白書を政府に提出しました。自由民権運動の始まりになりました。目的は、藩閥政治の廃止と議会の設立です。

(板垣 退助 1906年頃(70歳頃)/Wikipediaより引用)

1874年 板垣退助、江藤新平らは、民撰議院設立建白書を政府に提出
議会の設立を求めるものです。
1874年 板垣退助らは土佐に立志社を設立
1875年 板垣退助らは大阪に愛国社を設立
→政府は、讒謗律(ざんぽうりつ)、新聞紙条例で民権運動を取り締りました
1880年 愛国社を改称して国会期成同盟を結成しました
→政府は、集会条例で集会を許可制にして対抗しました
1881年 開拓使官有物払下事件が起きて政府が批判されました
(黒田清隆が五代友厚に格安で官有物を払い下げようとしていたため)
→国会開設の勅諭で憲法の制定と国会開設を宣言しました。
→伊藤博文は、大隈重信を罷免しました。
1881年 板垣退助は自由党を結成しました。フランス流です。機関紙は自由新聞です。
1882年 大隈重信が立憲改進党を結成しました。イギリス流です。機関紙は郵便報知新聞です。
1882年 福地源一郎が立憲帝政党を結成しました。保守的な政党です。機関紙は東京日日新聞です。
1885年 太政官制を廃止して内閣制度が定められました。総理大臣は伊藤博文、内務大臣は山県有朋、大蔵大臣は松方正義、外務大臣は井上馨です。
1886年 星亨らにより大同団結運動が起こりました。
1887年 三大事件建白運動が起こりました。三大とは、言論の自由の確立、地租軽減、外交の失策の挽回です。井上馨外相の条約改正への不満もきっかけのひとつです。
→政府は保安条例を制定して弾圧しました。後藤象二郎を入閣させました。

 

松方財政

西南戦争の影響でインフレが起きていました。戦費調達のため不換紙幣を大量に発行したためです。
そのため、大蔵卿の松方正義は、デフレ政策を行いました。

  • 緊縮財政で増税を行い、官営模範工場の払い下げを行いました。
  • 1882年、中央銀行として日本銀行を設立しました。
  • 1885年、銀兌換の日本銀行券を発行し銀本位制としました。

(政治家の頃の松方/Wikipediaより引用)

このデフレ政策の結果、不況が起こりました。

激化事件

不況や増税と政府の弾圧に対して各地で激化事件が起こりました。

1882年 福島事件 県令が自由党員や農民を弾圧しました
1884年 加波山事件(かばさんじけん)(茨城) 県令の暗殺を計画しましたが失敗しました
1884年 秩父事件(埼玉) 数千人が蜂起しました。
1885年 大阪事件 朝鮮の政権打倒計画でしたが、事前に逮捕されました。

 

大日本帝国憲法の制定

枢密院

1888年、枢密院を設置しました。天皇の最高諮問機関で憲法草案を審議するためです。
初代枢密院議長は伊藤博文です。

大日本帝国憲法

大日本帝国憲法は、1889年2月11日に公布され、1890年11月29日に施行されました。
天皇主権で統帥権がありました。統帥権とは軍の最高指揮権です。
君主(天皇)が定めた形式です。欽定憲法と呼ばれます。

帝国議会

1889年、帝国議会が開設されました。衆議院と貴族院の二院制です。
衆議院の選挙権は、直接国税15円以上収める25歳以上の男子のみでした。
納税額が多い人しか選挙権がありませんでした。
貴族院の選挙はありませんでした。

関連の記事

日本史の流れの概要(ペリー来航~江戸幕府の廃止)

△上に戻る