目次
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武家政権の成立(1180〜1221)
朝廷中心 → 武士中心へ転換
| 1185年 | (源頼朝)は、(守護)・(地頭)設置権を獲得しました。 (守護)・・・御家人を統率する、軍事・警察・反乱鎮圧 (地頭)・・・土地の管理、年貢の徴収・土地管理・現地支配 軍事権と経済権の分担 |
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| 鎌倉幕府の成立は、1185年説が有力になっています。 1185年:守護・地頭設置 → 実質支配 1192年:征夷大将軍 → 形式的成立 |
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| 1192年 | 源頼朝が(征夷大将軍)になりました。 将軍は御家人に(御恩)を与えました(本領安堵、新恩給与、役職を与える等)。 御家人は将軍に(奉公)しました(軍役等)。 御恩:土地保障・新領地 奉公:軍役・警護 土地でつながる主従関係 この主従関係に基づく制度を(封建)制度と呼びます。 |
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絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)/Wikipediaより引用 |
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| 源頼朝の死後、初代(北条時政)が実権の中心になりました。 ・将軍が形骸化し、執権=将軍の補佐 → 実権化 ・北条氏の世襲支配 |
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| (北条時政)は、源頼朝の妻の(政子)の父です。 北条政子は、尼将軍とも呼ばれます。 |
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北条政子(菊池容斎画、江戸時代)/Wikipediaより引用 |
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| 1219年 | 第三代将軍の(源実朝)が頼家の子の公暁に殺害されました。 |
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執権政治の確立(1221〜1274)
将軍より執権(北条氏)が実権を持つ
| 1221年 | (承久)の乱 朝廷 vs 幕府 → 幕府勝利 → 幕府の全国支配確立 (後鳥羽)上皇が倒幕の兵を上げたが幕府側2代目(北条(義時))が勝利しました。幕府は、京都に(六波羅探題)を設置しました。 |
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| 3代目北条(泰時)の代で(執権)政治が確立しました。 (評定衆)によって政治を行います。 |
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| 1232年 | 3代目北条(泰時)を中心として(御成敗式目)が制定されました。 武家のための法で裁判の基準となりました。 また武家法の基準として長く参照されました。 |
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対外危機と社会変化(1274〜1293)
外敵撃退には成功したが、土地が増えない戦争のため幕府弱体化
| 1274年 | (文永)の役 フビライの元と高麗の連合軍が九州に攻めてきましたが武士の奮闘と暴風雨があり、元と高麗の連合軍は撤退しました。 1281年の弘安の役とあわせて(元寇)と呼ばれます。 執権は8代目北条時宗でした。 |
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![]() 蒙古襲来絵詞 文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国・高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵/Wikipediaより引用 |
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| 1281年 | (弘安)の役 フビライの元と高麗の連合軍が九州に攻めてきましたがまたも武士の奮闘と暴風雨があり、元と高麗の連合軍は撤退しました。 (異国警固番役)を定めました。九州の博多湾などを警護します。 |
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| 1293年 | 九州防衛のため鎮西探題を設置しました。 |
幕府の動揺と社会不安(1293〜1331)
経済崩壊(借金問題) → 幕府の統制力低下
| 1297年 | (永仁の徳政令) 元寇は対外の戦いだったので幕府が御家人に与える土地がありませんでした。そのため徳政令により(借金を帳消し)としましたが、金融業者が貸し渋るようになり、結果として御家人は資金調達が困難となり生活が苦しくなりました。 執権の北条(貞時)が出しました。 |
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倒幕と鎌倉幕府滅亡(1331〜1333)
次の建武の新政へ
| 1318年 | 大覚寺統から(後醍醐)天皇が即位しました。 倒幕に向けて動きます。 |
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後醍醐天皇御像/Wikipediaより引用 |
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| 1324年 | (正中)の変 後醍醐天皇の倒幕計画ですが失敗しました。 |
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| 1331年 | (元弘)の変 後醍醐天皇の倒幕計画ですが失敗し天皇は隠岐へ流されました。 |
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| 1333年 | 鎌倉幕府は滅亡しました。 (楠木正成)らが反乱を起こしていました。 (足利尊氏)が六波羅探題を滅ぼしました。 (新田義貞)が鎌倉幕府を滅ぼしました。 (楠木正成)は、忠臣とされています。皇居外苑に(楠木正成)像があります。 |
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皇居外苑にある楠木正成像 後醍醐天皇に忠誠を誓い戦ったため忠臣とされています。 |
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| 1334〜1336年 | 建武の新政 後醍醐天皇が直接政治を行ういました。 公家中心の政治に武士の不満が高まりました。 |
鎌倉文化
武家文化・庶民文化の台頭
武士らしい力強さ・素朴さ・実用性が文化の中心になりました。
仏教が庶民にも開かれたのも大きな特徴です。
| 1212年 | (方丈記)。鴨長明。 日本三大随筆・・・枕草子、方丈記、徒然草 |
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| 1319年〜1331年頃 | (徒然草)。吉田兼好。 「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」 |
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| 鎌倉時代前半(13世紀初め頃) | 平家物語 源平争乱を題材としました。琵琶法師によって語り継がれました。 |
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| 吾妻鏡 武士側の公式記録 種類:歴史書(記録・日記形式) 内容:幕府の出来事・政治・人物 時期:鎌倉幕府成立〜中期(頼朝〜北条政権) 作成:幕府関係者(後に編纂) |
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| 新古今和歌集 和歌の最高峰 種類:和歌集(文学) 内容:和歌(短歌)約2000首 編纂:藤原定家 など 主導:後鳥羽上皇 |
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| 東大寺南大門 |
南大門 / via Wikimedia Commons 門の中の左右に金剛力士像の阿形像と吽形像がある。 |
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| 東大寺南大門 金剛力士像 運慶 |
東大寺金剛力士像(阿形像) 口を開いた阿形(あぎょう)像と口を閉じた吽形(うんぎょう)像がある。 阿吽の呼吸は、息のあった行動をしている様子を表す。 |
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| 阿弥陀三尊像 快慶 |
![]() 快慶作 阿弥陀三尊像 兵庫県浄土寺 |
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| 円覚寺舎利殿 |
千葉剛, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons 臨済宗。禅宗様の建築。 |
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蓮華王院本堂(三十三間堂) |
Akonnchiroll, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons 和様の建築。 |
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| 正宗 | ![]() 短刀 無銘正宗(重要美術品)。東京国立博物館 |
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| 長船長光 |
太刀 銘長光(東京国立博物館蔵、1955年国宝指定) |
源氏(鎌倉幕府将軍)
| 1 | 源頼朝 | 鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 |
| 2 | 源頼家 | 頼朝の子。兄。暗殺される。北条氏が実権を握る。 |
| 3 | 源実朝 | 頼朝の子。弟。鶴岡八幡宮で頼家の子の公暁に暗殺される |
北条氏(執権と得宗)
| 1 | 北条時政 | 得宗1。源頼朝の挙兵を助ける。13人の合議制の1人。比企一族を滅ぼす。 |
| 2 | 北条義時 | 得宗2。承久の乱が起こる。幕府軍として朝廷側に勝利。 |
| 3 | 北条泰時 | 得宗3。御成敗式目を制定。 |
| 4 | 北条経時 | 得宗4。 |
| 5 | 北条時頼 | 得宗5。 |
| 6 | 北条長時 | |
| 7 | 北条政村 | |
| 8 | 北条時宗 | 得宗6。文永の役と弘安の役で元と高麗の連合軍を撃退。 |
| 9 | 北条貞時 | 得宗7。永仁の徳政令を出した。 |
| 10 | 北条師時 | |
| 11 | 北条宗宣 | |
| 12 | 北条煕時 | |
| 13 | 北条基時 | |
| 14 | 北条高時 | 得宗8。 |
| 15 | 北条貞顕 | |
| 16 | 北条守時 |
得宗・・・北条氏嫡流の当主のこと
宗教
浄土信仰
| 浄土宗 | (法然) 念仏の「南無阿弥陀仏」を唱えれば、往生できるという専修念仏の教えを説いた。「(選択本願念仏集)」を著した。 |
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| 浄土真宗 | (親鸞) 悪人正機説。浄土真宗の教義で悪人こそ救済の対象であるとした。 「(教行信証)」を著した。 |
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| 時宗 | (一遍)。遊行上人とも呼ばれます。 踊り念仏を始めました |
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禅宗
| 臨済宗 | (栄西) 精神統一のために坐禅を行い、悟りを開く事を目的とする。 日本初の茶の専門書の「(喫茶養生記)」を著した。 |
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| 曹洞宗 | (道元) 只管打坐(しかんたざ)・・・ただひたすら座禅をすること。 「(正法眼蔵)」を著した。 |
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法華宗
| 日蓮宗 | (日蓮) 題目の「南無妙法蓮華経」を唱えることを説いた。 「(立正安国論)」を著した。 |
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