日本史の流れの概要(昭和 戦前:内閣と出来事)

日本史の流れの概要です。昭和の終戦までです。

内閣と出来事

昭和元年は1926年12月25日からです。

第一次
(若槻礼次郎)
内閣
1926年1月~1927年4月(大正15年/昭和元年~2年)
金融恐慌が起こりました。
→(片岡直温)蔵相の失言からです「(東京渡辺)銀行が支払い停止になった」。
(台湾)銀行の(鈴木)商店に対する融資の回収が困難になり若槻内閣は救済しようとしましたが、(枢密院)に否決され総辞職しました。

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Portrait of Wakatsuki Reijiro 若槻礼次郎/Wikipediaより引用

 
(田中義一)内閣 1927年4月~1929年7月(昭和2年~4年)
(金融)恐慌に対しての政策を行い沈静化させました。
→(3)週間の支払い猶予令(モラトリアム)
→日本銀行の非常貸出
三井、三菱、安田、住友の財閥が成長しました。

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  1927,1928 (山東)出兵(日本の権益の維持のため)
満州の関東軍が(張作霖)爆殺事件を起こしました。

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  1928 衆議院議員総選挙(最初の(普通)選挙です)

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Portrait of Tanaka Giichi 田中義一/Wikipediaより引用

 
(浜口雄幸)内閣 1929年7月~1931年4月(昭和4年~6年)
1929.10 アメリカの株式市場が大暴落し(世界)恐慌が起こりました。

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  1930.1 (井上準之助)蔵相は()輸出解禁を行いました。
→金が海外に流出しました。
→(昭和)恐慌が起こりました。

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  1930 (ロンドン海軍軍縮)条約に調印しました。全権は若槻礼次郎。
日、米、英の海軍の補助艦保有量の制限です。
内閣が海軍の反対を押し切って条約を結んだ(=天皇の統帥権を犯した)として批判されました。→(統帥権干犯)問題

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Portrait of Hamaguchi Osachi 浜口雄幸/Wikipediaより引用

 
第二次
(若槻礼次郎)
内閣
1931年4月~1931年12月(昭和6年)
1931.9 満州の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する(柳条湖)事件を起こし、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始しました。
→(満州)事変です。
閣内不一致により総辞職しました。

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(犬養毅)内閣 1931年12月~1932年5月(昭和6年~7年)
(高橋是清)蔵相が()輸出再禁止を行いました。
通貨当局が発行額を管理する管理通貨制度に移行しました。
(日産)、(日窒)などの新興財閥が成長しました。

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  1932.1 (第一次上海)事変(日中両軍の衝突)

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  1932.3 (満州)国の建国が宣言されました((溥儀)が執政)。

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  1932.3 (血盟団)事件。(井上準之助)前蔵相,三井合名会社の(団琢磨)が殺害されました。

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  1932.5 (五一五)事件。犬養首相は青年将校に殺害されました。

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犬養毅 Tsuyoshi Inukai/Wikipediaより引用

 
(斎藤実)内閣 1932年5月~1934年7月(昭和7年~9年)
(挙国一致)内閣です。政党内閣ではありません。斎藤実は海軍大将でした。

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  1932.10 (日満議定)書を結びました。
中国政府は国際連盟に訴えリットン調査団は満州事変を調査した
(リットン)報告書を提出しました。
→日本は(国際連盟)を脱退しました(松岡洋右)。

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Portrait of Saito Makoto 斎藤実/Wikipediaより引用

 
(岡田啓介)内閣 1934年7月~1936年3月(昭和9年~11年)
1935 (天皇機関説)事件((美濃部達吉)は不敬罪で告発されました)

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  1936.2 二・二六事件
皇道派の青年将校により(斎藤実)内大臣、(高橋是清)蔵相、(渡辺錠太郎)教育総監らが殺害されました。
戒厳令が出され反乱軍は鎮圧されました。
→統制派が台頭していきました。

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内閣総理大臣岡田啓介/Wikipediaより引用

 
(広田弘毅)内閣 1936年3月~1937年2月(昭和11年~12年)
(軍務大臣現役武官)制が復活しました。
張学良らが蒋介石を拉致監禁する(西安)事件が起こりました。
→国共合作に進みました。

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Portrait of Hirota Koki 広田弘毅/Wikipediaより引用

 
(林銑十郎)内閣 1937年2月~1937年6月(昭和12年)

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林銑十郎の肖像/Wikipediaより引用

 
第一次
(近衛文麿)内閣
1937年6月~1939年1月(昭和12年~14年)
1937.3 (盧溝橋)事件(日中両軍が軍事衝突しました)
→日中戦争
→1937.9 (第二次国共)合作。国民党と共産党の抗日のための協力です。

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  1938,1939 (張鼓峰)事件、(ノモンハン)事件 。ソ連との軍事衝突です。

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  1938 (国家総動員)法を制定しました。議会の承認なしに物資や人を動員できるようになりました。

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Fumimaro Konoe 近衛文麿/Wikipediaより引用

 
(平沼騏一郎)内閣 1939年1月~1939年8月(昭和14年)
(国民徴用)令。軍需産業等に強制的に動員できるようになりました。

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Portrait of Hiranuma Kiichiro 平沼騏一郎/Wikipediaより引用

 
(阿部信行)内閣 1939年8月~1940年1月(昭和14年~15年)
1939.9~ (第二次世界)大戦が勃発しました。

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軍装を着用した阿部/Wikipediaより引用

 
(米内光政)内閣 1940年1月~1940年7月(昭和15年)

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米内光政/Wikipediaより引用

 
第二次
(近衛文麿)内閣
1940年7月~1941年10月(昭和15年~16年)
1940.9 (日独伊三国)同盟を締結しました。
1940.10 (大政翼賛)会発足しました。
1941.4 (日ソ中立)条約を結びました。
1940 (北部仏印)進駐(フランス領インドシナ北部)。南進政策です。
1941 (南部仏印)進駐(フランス領インドシナ南部)

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  アメリカは日本への石油の輸出禁止を行いました。
アメリカ、イギリス、中国、オランダの日本に対する経済封鎖((ABCD)包囲網)を行いました。

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(東條英機)内閣 1941年10月~1944年7月(昭和16年~19年)
アメリカは日本へハルノートを提示しました。
1941.12 (真珠湾)攻撃を行いました。
→太平洋戦争です。
1943 (大東亜)会議を行いました。アジアの代表者を東京に呼びました。
勤労動員 中等学校以上の学生を労働力として働かせました。
学徒出陣 学生を徴兵し出征させました。

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Hideki Tojo 東條英機/Wikipediaより引用

 
(小磯国昭)内閣 1944年7月~1945年4月(昭和19年~20年)
(ヤルタ)会談 米のルーズベルト、英のチャーチル、ソ連のスターリンが会談。ドイツ降伏後のソ連の対日参戦等を決めました。
1945.3 東京大空襲

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小磯國昭/Wikipediaより引用

 
(鈴木貫太郎)
内閣
1945年4月~1945年8月(昭和20年)
1945.8.6 広島に原子爆弾が投下。
1945.8.8 ソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻。
1945.8.9 長崎に原子爆弾が投下。
(ポツダム)宣言を受諾

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Suzuki Kantaro/Wikipediaより引用

 

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