日本史の流れの概要(徳川家康の時代)

日本の歴史の徳川家康の時代です。

徳川家康 徳川家康の戦い
江戸幕府のしくみ
  実施した政策・その他

徳川家康の戦い

1598年
(慶長3年)
豊臣秀吉死去  
1600年
(慶長5年)
(関ヶ原)の戦い(岐阜県)
徳川家康(東軍)が(石田三成)(西軍)を破りました。
豊臣家武将の武断派の加藤清正、福島正則は徳川側につきました。
豊臣家は220万石から65万石に減封、
徳川家は220万石から400万石になりました。

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1600年 オランダ船のリーフデ号が漂着しました。
イギリス人の(ウィリアム・アダムス)(三浦按針)は、徳川家康に外交顧問として仕えました。

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1603年 徳川家康は(征夷大将軍)になり江戸幕府を開きました。

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1604年 (糸割符)制度
京都、堺、長崎の有力商人を(糸割符)仲間としました。
輸入する生糸を一括購入させることによる価格の抑制が目的です。

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1605年 徳川家康は征夷大将軍の座を子の(秀忠)に譲り(大御所)になりました。

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1607年 徳川家康は駿府城(静岡県)に移りました。  

巽櫓 東御門(復元)江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

1609年 長崎県の平戸に(オランダ)商館を許可し貿易を行いました。
1641年に長崎の出島に移されました。

1613年 長崎県の平戸に(イギリス)商館を許可し貿易を行いました。
1623年にイギリスは商館を閉鎖し撤退しました。
慶長遣欧使節・・・伊達政宗は、支倉常長を欧州に派遣しました。
1614年
(慶長19年)
(大阪冬の陣)
方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家と徳川家の対立が深まりました。
豊臣方は大阪城に大量の牢人を入れ、徳川家康は大阪城を包囲しました。
城の外堀を埋めることを条件に講和が結ばれましたが、城の内堀まで埋められてしまいました。

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1615年
(元和元年)
(大阪夏の陣)
大阪城は落城し豊臣家は滅亡しました。
徳川家に対抗できる大名はいなくなりました。
平和の時代が来たという意味で(元和偃武げんなえんぶ)と呼ばれます。

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1615年
(元和元年)
(武家諸法度)
諸大名を統制するための法です。
元和5年広島城主の福島正則が無断で城を修繕したとして武家諸法度違反に問われ、50万石から川中島4万石に減封されました。

(禁中並公家諸法度)
天皇、公家に対する規制の法です。

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1616年
(元和2年)
徳川家康死去
栃木県の(日光東照宮)は徳川家康を主祭神として祀っています。

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日光東照宮陽明門/Wikipediaより引用

 

 

江戸幕府のしくみ

江戸幕府の
しくみ
(大老) 非常時のみに置かれました。

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(老中) 最高職として幕政を行いました。

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(側用人) 将軍の命令を老中に伝えました。
徳川綱吉の時代の(柳沢吉保)が有名です。

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(若年寄) 老中を補佐します。

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(京都所司代) 京都の治安維持の任務を行いました。

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三奉行 (寺社)奉行、()奉行、(勘定)奉行を指します。

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領地 幕府は400万石の(天領)と300万石の(旗本領)を持っていました。

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(旗本) 家臣団。将軍に謁見できます。(約5,000人)
1万石未満です。1万石以上は大名と呼ばれます。

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(御家人) 家臣団。将軍に謁見できません。(約1万7,000人)

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(親藩(しんぱん)) 徳川家一門
水戸、尾張、紀伊の御三家
田安、一橋、清水の御三卿

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(譜代(ふだい)) 三河時代からの家臣
井伊、酒井、本多など

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(外様(とざま)) 関ヶ原の戦い以降の家臣
島津、毛利など

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実施した政策・その他

(南蛮人) ポルトガル人、スペイン人

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(紅毛人) イギリス人、オランダ人

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(朱印船)貿易 朱印状を交付し外国との貿易を行いました。
東南アジアの各地に(日本町)ができました。

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