日本史の流れの概要(豊臣秀吉の時代)

日本の歴史の豊臣秀吉の時代です。

豊臣秀吉 秀吉の戦い
  実施した政策・その他

秀吉の戦い

1582年
(天正10年)
(備中高松)城の戦い(岡山県)
毛利配下の清水宗治の(備中高松)城を水攻めにしている最中に(本能寺)の変で織田信長は(明智光秀)に討たれました。
羽柴秀吉は、(明智光秀)と戦うため織田信長が討たれたことを伏せたまま毛利と和睦し、軍勢は京に向かって約230kmを約10日あまりで移動しました。(中国大返し)と呼ばれます。

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1582年
(天正10年)
(山崎)の戦い
中国から引き返した羽柴秀吉が(明智光秀)を倒しました。
天王山(てんのうざん)が舞台になりました。天王山という言葉は重要な試合などの意味で今でも使われます。
明智光秀の権力の期間が短かったことから三日天下といわれています。

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1582年
(天正10年)
(清州)会議
羽柴秀吉は信忠の子である(三法師)を推し、柴田勝家は信長の三男の(織田信孝)を推して対立しました。
参加者:柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興
滝川一益は間に合わなかった。

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三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵, Public domain, via Wikimedia Commons

1583年
(天正11年)
(賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい))
羽柴秀吉が(柴田勝家)を倒しました。
豊臣方の七人の若武者が活躍しました。賤ヶ岳の七本槍と呼ばれています。
加藤清正、福島正則、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明

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1584年
(天正12年)
(小牧・長久手)の戦い
「羽柴秀吉」対「(織田信雄)・徳川家康」の戦いです。
秀吉は、(織田信雄)と講和し戦いは終了しました。
(織田信雄)は、織田信長の次男です。

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1585年
(天正13年)
四国平定 (長宗我部元親)が降伏。

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1586年
(天正14年)
朝廷より豊臣姓を賜りました。
(関白)に就任しました。
惣無事令を発令しました。私闘を禁じました。

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1587年
(天正15年)
九州平定 (島津義久)が降伏。
(バテレン)追放令
キリシタンの禁止等ですが徹底はされませんでした。

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1588年
(天正16年)
(刀狩令)・・・農民から武具を没収しました。兵農分離を目指しました。
(聚楽第)に後陽成天皇を招きました。
大阪城が完成しました。(1583年築城開始)

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復興天守 / wikipediaより引用

1590年
(天正18年)
小田原平定 (北条氏政)らを倒しました。(神奈川県)
奥州の(伊達政宗)も小田原攻めに加わり天下統一となりました。
小田原評定(おだわらひょうてい)という言葉は、会議が長引くが結論がでないという意味で今も使われています。

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1591年
(天正19年)
人掃令(身分統制令)で身分の移動を禁じました。

1592~1593年
(天正20年~
文禄2年)
(文禄)の役
豊臣秀吉は、明の征服を目指し朝鮮に出兵しましたが、(李舜臣)の水軍や明の援軍により苦戦し停戦しました。
肥前の(名護屋)を本陣にしました。(佐賀県)

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1597~1598年
(慶長2年~
慶長3年)
(慶長)の役
秀吉の死後に撤退しました。

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実施した政策・その他

(聚楽第) (じゅらくてい)豊臣秀吉が建てた邸宅です。  
 

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)/Wikipediaより引用

 
五大老 (徳川家康)、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家

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五奉行 (石田三成)、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家  
天正大判 豊臣家が鋳造を命じた大判の貨幣です。  

天正菱大判 造幣博物館蔵 As6673, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 
(太閤検地) 土地の生産力を調査しました。
貫高制をやめて(石高)制にしました。天正の石直しと呼ばれます。
石高とは米の生産力です。京枡を全国統一の基準としました。

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度量衡 度量衡(どりょうこう)を統一しました。
度は長さ、量は容積、衡は重さです。
(一地一作人)の原則 一つの土地に農民一人に耕作権を認め年貢を納めさせるようにしました。荘園制の体制は終了しました。

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